「なぜ自分はこんなにも90年代後半が好きすぎるのか?」
※「ウェーイ感」について
単純に「リア充だった」とかいう意味だけではない
ウェーイ感は、人が理性的でなく本能的に楽しめている、最高に夢中になれている時のアドレナリンとかが出てる時の感覚そのもの
この感覚が起きる場所を人は求めてると思う
流行してる所に行くと人はそれだけでウェーイ感を得られたから、流行が存在してたその時代は、ウェーイ感に溢れていた
<仮説>
■「崇められる存在」が確かにあったから
現代はネットのせいでその存在が近すぎになったり、素人がそれなりの作品アップしてたりして、崇めるには足りなくなってしまった
現在は絶対神の不在、絶対的な目標の不在による自由の刑
90年代後半は、周りの人々も同じ存在を崇めていられたし、そのことによるウェーイ感があった
■日本が盛り上がっていたことで常にウェーイ感があったから
盛り上がってるところに行った時のお祭り騒ぎ感が90年代後半にはどこでも存在していた
現代は流行の不在のせいで皆バラバラの行動を取るため、盛り上がってる所にいるというウェーイ感が無かった
否が応でも良い気分にさせられて少し調子乗せられるウェーイ感があの時代はあった
でウェーイ感があるから人は派手になり、活き活きとする
渋谷の若者とか絶対90年代後半の方が活き活きとしてるし人も多いはず
ついでに俺はそういうウェーイ状態にある、土着的な人間がなぜかすごい好き
土着性を感じるから
土着的な人間の方がドラマが生まれるしスケールがでかい
というか非土着的な人間なんて、何もカタルシス出ない
だってやることなすこと理由が分かってるし説明できるから(説明できちゃうものなんてカタルシス出ない)
だから俺は土着的なものが好きなんだろう
芸術を作る人は土着的であるべきだと思う
または非土着的な部分をあまり説明しすぎちゃいけない
そんなことしたら芸術の魔法が解ける
■自分が一番幸せでウェーイな時代だったから(懐古)
小学生とかいうウェーイすぎる年代だったから
単純に良い思い出が残ってる
■その時代の文化がやたらと俺好みだった&クオリティ高かった、神的な時代だったから
ドラマも音楽もクオリティ高かったと思う
そしてやたらテーマが大きくて、人生を達観したかのような、なんかすごい恍惚感を得られるのが多かった
今は「好き=人生それだけで良い」みたいな歌ばかりでテーマが小さすぎるしまるっきり共感できない
よく「90年代後半は暗い」とかいう意見あるけど、自分は時代の空気については分からない
ただ音楽やドラマのテーマはやたらと暗いの多かった記憶はある
覚えているドラマがキンキが政府に変な場所に閉じ込められるやつとかサイコなやつとか
音楽もやたらとテーマがでかく暗かった
というか「暗い部分をちゃんと認識して、それでも生きよう」という大前提をほとんどの歌が持っていたと思う
そういう流行りがあった
そしてその流行りは今思えばとても、
「流行にしては分かってんじゃねぇか」
「流行って普通もっともっと浅はかなの多いのに」
と思える
よく見てたアニメもそういう感じだった
そして映画にフィルムが使われていた最後の時代だった
00年代からはデジタルがバンバン使われだし、質感のカタルシス・クオリティが下がっていった
音楽はほんとクオリティ高かったと思う
■時代の空気や流行などの、とにかく「他人とコミュニケーションできる共通題材が存在していた」
ネットが無く人々は今よりも情弱で同じメディアを楽しんで生きていた最後の時代なため、
コミュニケーションの題材、共感の題材が今よりもあった
現在はそういうのが消失し、せいぜい多くの人と共感できるのはオリンピックとかくらいになってしまった感じがある
それ以外の時は他人と話なんかまったく合わない時代
同じコミュニティーの人とならば合うだろうけど、
そもそもそれは90年代後半でも一緒
明らかにコミュニケーションの題材が減った
「逆に今はネットでコミュニケーションが増えたのでは?」
とも言えるかもしれないけど、ネットだと、直で話した時に味わえる承認感が、全然無い
ネットで人と話しても、全然満たされない
それのせいで、確かにコミュニケーションはできるけど、なんか癒されない
■人々が土着的だった最後の時代だから(=人に魅力があったから)
そして過度期だった
そこを頂点として、そこをすぎたら一気に人が土着的じゃなくなっていった
■他のとかぶるけど「大衆文化が存在していた」から(=承認欲求が満たされ、ウェーイ感があった)
■ネットがあることで周りと比べることができだし、不幸だと感じるようになった
まず原則として「人が幸/不幸を分ける基準は他者との比較」である
ネットができたせいで「お山の大将」がいなくなった
全ての一般人は「もっとすごい人から見て劣ってる」人間になった
それまでは現実のコミュニティーが自分の幸不幸の感覚に大きく寄与していたから、そうでもなかった
ネットができたせいで人々は自分のことを不幸/劣ってると感じるようになってしまった
単純にネットが無いと幸せになれる
■ヤンキーが持て囃されたから(人々に魅力があったから)
これはあんま記憶にないけどそうだったかもしれない
スクールカーストの頂点がヤンキーと天才・秀才だったかもしれない
今は「今の時代ヤンキーってダサい」的なことになってる
ヤンキーってつまり土着的な人間だから魅力的
土着的な人間が多かったってことは魅力的
今みたいな非土着的な人間ばっかなのは魅力的でない
■単純に文化の方向性が自分のアイデンティティとかぶってる
これはある
あの感じが自分のアイデンティティになってる
「自分が指向してる方向性の文化が、多くの人に支持されていた時代」だったかもしれない
だから失われたユートピアみたいな感じになってるのかもしれない
やたらサブカル臭い
やたら暗い文化物多い
やたら文化のクオリティが高い(でもCMは90年代はなんか低俗だったかもしれない)
自分という人間が好みそうな要素が多い
自分が好む方向性が「みんなも好んでいた」「みんなも崇めていた」という感じが良いのかも
まるで自分の個性自体が承認されているような気持になるのかも
■普通にクオリティの高い文化が好きだから
単純に文化自体のクオリティの高さが好きなのもある
・・・
まとめるとどうなるのか?
●人間/文化の土着性の最大化(九龍城時代)
●幸福度の最大化
●文化のクオリティの最大化
●共通神(≒共通の流行)の存在による本能的ウェーイ感(幸福感)の最大化
これらかな?
一つにまとめられないかな
うまく言えない
現代にlate90sの雰囲気を再興させるにはどうしたらいいのか
場所はインターネットとテレビどっちもだろう
でめちゃくちゃクオリティが高いものを生み出す
そして人々の共通神となる
どうにかしてこのインターネット時代に一つ流行(共通神、ウェーイ感)を生む
そしてこの比較時代にどうにか人々を幸せにする
どうすればいいかは分からないけどそれができたなら90年代後半の感じが出せる
この相互監視/相互評価の上での幸不幸の決定のインターネットというものの上で、
どう殺伐とした雰囲気をなくし、ウェーイ状態にさせるのか
「みんなも参加できる」
「みんなもワンチャンある」
「みんなも憧れになれる」
的な幻想を与えることが殺伐としたネット時代にどうやるのか
自分の全盛期は90年代後半ってよりも2010年前後だけど
そこらへんは他人とスカイプしまくっててまともな批評意識無かった
とにかく誰かと話したかった
いろんな人と話しておもしろかった
どうやったらあの頃のようなユートピアを作れるのか
そういうの以外興味無い
アイデンティティがそこで止まってる
現在もユートピアっちゃユートピアだけど、2010年前後や90年代後半にはボロ負けだ
結局幸せを与える物でなきゃいけない
何を作るにしても
90年代後半の物は自分を幸せにした
そして2010年前後は自分はツイッターはやってなかった
まだmixiの村社会だった
好きなものプロフィールに書いて誰かからメッセ―ジもらったりしてれば満たされた
自分はオリジナルラヴはリアルタイムでは意識上に上がるほど触れてはいないけど、
朝日のあたる道のPV見ると来るものがハンパない
こういうのがクオリティ高いんだと思う
PVは音楽を聴く時心を本能的なままにさせておいてくれる最高の媒体だと思う
ドラマのエンドロールとかも同じ
人を本能的なままにさせておいてくれること、批評状態から解放してくれることが幸せだと思う
カタルシスがすごいある